今年第40回記念大会を迎える”コカ·コーラ"鈴鹿8耐。この日本一のビッグレースには、数多くの世界ロードレースGP(現MotoGP)王者が参戦しました。8耐を走ったGPチャンピオンを紹介する連載。今回はスズキのレジェンドライダー、ケビン・シュワンツです!

GP500ccクラスでは鈴鹿で4勝!

1980年代半ばから1990年代半ばまで、世界ロードレースGPのファンだった日本人の多くは、シュワンツの速さを実感しているのではないでしょうか? 鈴鹿サーキットを舞台とする日本GPでは、1988、1989、1991、1994年で優勝。グランプリライダーのキャリアを通しても、鈴鹿で行われた日本GPでは表彰台を逃したのは1987年と1995年の2年だけでした。

アメリカで活動していたころ、トッププライベーターチームのヨシムラに見出されたシュワンツは、鈴鹿8耐参戦キャリアの多くをヨシムラから参戦しています。最初は1985年で、パートナーはグレーム・クロスビー。スズキGSX-R750に乗っての後半の猛スパートで、見事3位表彰台を獲得しています。

翌1986年はヨシムラのエース、辻本聡と組んで参戦。レース序盤でGSX-R750はシフトのリンク破損というトラブルで5分少々のピットインを強いられましたが、5時間経過時点では追い上げて3位に浮上。そのポジションを守り、2年連続で3位ゴールを決めています。

1987年はヨシムラで大島行弥と組み、予選3位・決勝19周リタイアに終わりますが、1988年はダグ・ポーレンとともに予選3位・決勝2位というリザルトを残しています。

画像: 1985年、鈴鹿8耐ウィナーのG.クロスビーと組んだ若きシュワンツは、深いバンク角、独特のフォーム、そしてその卓越した速さで多くのファンにその印象を残しました。 オートバイ/モーターマガジン社

1985年、鈴鹿8耐ウィナーのG.クロスビーと組んだ若きシュワンツは、深いバンク角、独特のフォーム、そしてその卓越した速さで多くのファンにその印象を残しました。 オートバイ/モーターマガジン社

画像: 1986年大会でのシュワンツ。この年から世界ロードレースGP500ccクラスに参戦したシュワンツはベルギーとサンマリノGPで10位に入り、ポイントを獲得していました。 オートバイ/モーターマガジン社

1986年大会でのシュワンツ。この年から世界ロードレースGP500ccクラスに参戦したシュワンツはベルギーとサンマリノGPで10位に入り、ポイントを獲得していました。 オートバイ/モーターマガジン社

画像: 1988年大会、シュワンツ/ポーレン組はゴール前1時間40分の7回目のピットインから、タイヤ交換なし・給油のみという戦略で首位のケビン・マギー/ウェイン・レイニー組(ヤマハ)を追いますが、1周の差をつけられて2位という結果になりました。 オートバイ/モーターマガジン社

1988年大会、シュワンツ/ポーレン組はゴール前1時間40分の7回目のピットインから、タイヤ交換なし・給油のみという戦略で首位のケビン・マギー/ウェイン・レイニー組(ヤマハ)を追いますが、1周の差をつけられて2位という結果になりました。 オートバイ/モーターマガジン社

また、鈴鹿8耐を走るシュワンツを見たいですね!

前年同様ポーレンと組んだ1989年は、予選3位・決勝8位。ダグ・チャンドラーと組んだ1992年はヨシムラではなくラッキーストライク・スズキからのエントリーでしたが、予選25位・決勝50周リタイアという振るわない成績に終わりました。

これがシュワンツ最後の鈴鹿8耐のリザルトになる・・・と誰もが思っていたでしょうが、なんとGPから引退して久しい2013年、加賀山就臣、芳賀紀行と組んでチーム・カガヤマのライダーとして参戦! マシンはスズキGSX-R1000で予選6位、そして決勝では1988年以来の4度目の表彰台(3位)を獲得して、多くのファンを驚かせました。

翌2014年も、Legend of YOSHIMURA SUZUKI Shell ADVANCEから、青木宣篤と辻本聡と組んで参戦。しかし、序盤でチームがリタイアしたため、決勝を走るシュワンツの姿を見ることなく、幕切れとなってしまいました。現時点では、通算8回の参戦で、表彰台獲得率5割。最高位は2位が、シュワンツの鈴鹿8耐で残した記録になっています。

1993年の世界ロードレースGP500cdクラス王者が、また8耐を走る機会はあるのでしょうか? 1964年生まれのシュワンツが、ハイレベルな鈴鹿8耐で戦うことは非常に難しいことではあるでしょうが、「フライング・テキサン」の走りをまた見たい・・・と思う人は、少なくはないでしょう。

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