オートバイ/モーターマガジン社
"コカ·コーラ"鈴鹿8耐の歴史のなかで、多くの人々の記憶のなかに残るマシンたちを紹介する連載です。今回は1985年、優勝したマシンよりも、多くの人々の記憶に刻まれることになったあのマシンにフォーカスします!
残り30分の悲劇・・・
1985年、第8回大会はヤマハが初めて鈴鹿8耐にワークス体制で参戦しました。世界ロードレースGP500ccクラス3連覇の英雄、ケニー・ロバーツと、全日本ロードレース選手権のエースライダー、平忠彦のコンビが駆るFZR750は、一般業種のスポンサーである資生堂の男性化粧品「テック21」カラーに彩られており、すべての面で注目を集めるドリームチームと言えました。
エンジン始動に手間取り、大幅にスタートで出遅れたロバーツ/平組でしたが、首位浮上後はその地位を盤石なものとし、6時間経過後はなんと全車をラップ遅れにしました!
1984年の世界ロードレースGP500ccを制覇したヤマハYZR500(0W76)をベースとするアルミ・デルタボックスフレームに、前輪に近づけてエンジンを搭載し、スイングアームを長くとる・・・というFZR750に構成は、現在の市販スーパースポーツのYZF-R1や、MotoGPマシンのYZR-M1にも通じるフィロソフィーのもと生み出されたものでした。
多くの鈴鹿8耐ファンの語り草となっていますが、他を圧倒する速さをみせたロバーツ/平組のFZR750はなんと残り30分を切ったところでエンジンブロー! 白煙を吹きながら惰性で最終コーナーを降り、平はグランドスタンド前でFZR750を停めることになりました・・・。
この悲劇的な結末というドラマは、1980年代の鈴鹿8耐を語る上で欠かせないエピソードとなりました・・・。