1994年の鈴鹿8耐では大怪我を負う!
1973年、千葉県に生まれた宇川は、小学校4年生だった10歳のころからポケバイをはじめました。他のことに全く興味なかった、と宇川が振り返るように当時はバイクに熱中していたそうです。1989年には名門のテクニカルスポーツ九州(現チーム高武)に加入し、ロードレースにデビュー。その年の九州選手権SP250チャンピオンに輝きました。
翌1990年、17歳だった宇川は若手ライダーの登竜門、鈴鹿4耐にて柳川明選手とペアを組んで優勝。1991年には国内A級全日本250ccチャンピオンになり、1992年には国際A級昇格とともにホンダワークスに入り、その将来を嘱望されることになります。
周囲の期待に応えるように、宇川は1993年、1994年の全日本250ccチャンピオンタイトルを連覇。また1994年に初出場した世界ロードレース選手権日本GPでは表彰台獲得と、順調にエリートライダーとしての実績を積み重ねていきます。
しかし、1994年に岡田忠之と組んで、チームHRCから出場した鈴鹿8耐では、初といえる大きな挫折を味わうことになります。この年の鈴鹿8耐は赤旗中断で初の2ヒート制となりましたが、それは宇川らが絡む事故に起因しています。決勝スタート30分後の11週目、宇川は不幸にも200Rの出口で他車から漏れ出たオイルにより転倒。宇川は首の骨を折る重傷で、この年の後半を棒に振る結果になってしまったのです。
翌1995年はチームHRCから武石伸也と組んで出場。予選は2位ながら決勝はリタイアでした。1996年からは世界ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始。この年はミゲール・デュハメルと組んで鈴鹿8耐に出場し、初完走となる8位のリザルトを残しました。
1997年と1998年に、子供の頃から憧れていた鈴鹿8耐で宇川はついに優勝します。パートナーはともに伊藤真一で、最初の年は雨、次の年は晴れと異なるコンディションで得た連覇は、同一ライダーのペアでは初という偉業でもありました。
前人未到の鈴鹿8耐5勝目を記録!
3連覇を狙った1999年は、ポールポジションからのスタートと快挙達成に視界良好と思えましたが、相棒の伊藤がトップ争いをしていた13週目にクラッシュし、その夢は潰えました・・・。しかし2000年は、加藤大治郎と組んで見事自身3度目の優勝を記録。アクシデントによりペースカーが導入されたのち、再スタートで一気にスパートをかけてトップに立った、宇川の走りが光ったレースでした。
加藤大治郎と連覇を狙った2001年は、同門のバレンティーノ・ロッシ/コーリン・エドワーズ組、岡田忠之/アレックス・バロス組と同一周回の217周を走りながら惜しくも4位と表彰台を逃します。
宇川がワイン・ガードナーの4勝という記録に並び、そして追い越したのは2004、2005年の大会でした。セブンスターホンダで井筒仁康と組んでVTR1000SPWで出場した2003年はリタイアという結果に終わりましたが、翌2004年は井筒とCBR1000RRWで昨年の雪辱を優勝で晴らしています。
2005年は、セブンスターホンダで清成龍一と組んで出場。決勝スタート1時間半後の午後1時ころ、大粒の雨が降り出した影響で波乱のレース展開となりましたが、宇川/清成組はどのチームよりも速いラップタイムを刻み続け、盤石のレース運びを披露します。
そして最終的には2位に4周という大差をつけて独走優勝! 宇川はついに、長年守られてきたW.ガードナーの記録を破る、鈴鹿8耐通算5勝の偉業を達成しました。
2006年に現役を引退した宇川ですが、その後はホンダの社員となりMotoGPマシンや市販車開発を担当したり、HRCで若手ライダーの育成を担っています。2017年3月の「2017 モータースポーツファン感謝デー」では、加藤大治郎とともに勝利したときのマシン、VTR1000SPWでのデモ走行を披露。10年ぶりとなる鈴鹿サーキット走行の勇姿で、多くのファンを喜ばせています。