今年、ヤマハ・ファクトリー・レーシング・チームの4連覇を阻止するため、復活したホンダのファクトリーチームであるTeam HRC。レッドブルをスポンサーにしてのぞむ鈴鹿8耐の練習で、そのカラーリングが公開されたのですが、個人的に気になったのはゼッケンの番号でした・・・。

鈴鹿8耐におけるエースナンバー「11」と「33」の歴史

先日鈴鹿サーキットでは、鈴鹿8耐に向けての4メーカー合同テストと、タイヤメーカー合同テストが行われました。天候はあいにくの雨でしたが、雨の走行データ収集も貴重な準備に他なりません。真夏の決戦に向けて各チームが、精力的に走行周回を重ねていました。

今年の注目チームのひとつ、久々に鈴鹿8耐にワークス体制で挑むHRC・・・「Red Bull Honda with 日本郵便」は全日本JSB1000のエースである高橋巧が7月5日の4メーカー合同テスト、MotoGPで戦う中上貴晶が7月6日のタイヤメーカー合同テストで、CBR1000RRWの走りを確認していました。

1回目の走行ではトップタイムの2分18秒446を記録した高橋巧(ホンダ)。2回目は2番手でしたが、手応え十分のテストを消化したようです。

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テスト2日目となるタイヤメーカー合同テストでは、CBRで鈴鹿を走り慣れた高橋巧は走行せず、中上貴晶の習熟にすべての時間を使いました。

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7月の合同テストがはじまり、7月29日の決勝に向けてのムードが否応無く盛り上がりますが、個人的にちょっと気になったのはゼッケンが「33」なんですね・・・。

そこで、「11」と「33」番の歴史を調べてみました!

鈴鹿8耐に長年参戦するチームは、それぞれ固有の番号を使う傾向があります。有名なところでは第1回から出場を続けているヨシムラの「12」とか、1985年のケニー/平組のテック21由来のヤマハの「21」とかがあげられますね!

さてホンダのエースナンバーとしてイメージが強い「11」ですが、実は第1回の1979年からしばらくはカワサキ車がつけることが多かったナンバーでした。

1980年、グレッグ・ハンスフォードと組んで鈴鹿8耐初参戦したエディ・ローソンとカワサキZ1。ウェス・クーリー/グレーム・クロスビー組のヨシムラスズキGS1000Rに次ぐ2位を獲得しました。なお周回数は、1位と同じ200周でした。 オートバイ/モーターマガジン社

1982年にはジェームス・アダモ/ダグ・ランツ組のドゥカティに付けられるなど、「11」はまだホンダにとっては特別な数字ではありませんでした。有力なホンダ系チームに初めて11番がついたのは1984年、TT-F1が1,000ccから750ccにスケールダウンされた年の、ジョイ・ダンロップ/ジム・ウェルス組(RS750)でしょうか? 翌1985年の11番はジョン・ベタンコート/サム・マクドナルド組でしたが、こちらのマシンは旧型RS750で本命チームのワイン・ガードナー/徳野正樹組のRVF750はゼッケン3番。まだエースナンバーとしての11ではなかったわけです。

ガードナー/ドゥーハン時代に定着した「11番」

1986年にW.ガードナーはドミニク・サロンと組んで連勝しますが、この年のRVF750についたナンバーは「4」番。同コンビでの連覇を狙うも、残念ながら下位に沈んだ1987年は「1」番。そしてガードナーがニール・マッケンジーと組んだ1988年は「99」番・・・でした。

ようやく? 11番がHRCのエースナンバーとして定着することになったのは、第12回大会の1989年からでした。この年、ガードナーは同郷の後輩であるミック・ドゥーハン(当時はマイケル・ドゥーハンと表記されてました)と組み、11番をRVF750につけています。このコンビは1990年も鈴鹿8耐に11番をつけたRVF750で挑んでますが、11番の同コンビがようやく勝てたのは1991年でした・・・。

3度目の正直? 11番をつけたホンダRVF750で、1991年の鈴鹿8耐を制覇したM.ドゥーハン(写真)/W.ガードナー組。

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1992年はM.ドゥーハンが怪我のため参加できず、8耐引退を表明していたガードナーのパートナーはダリル・ビーティーがつとめることに。見事この年も11番のRVF750は勝利し、ガードナーの8耐引退の花道を飾りました。

鈴鹿8耐4勝の記録を持つガードナーですが、11番をつけての勝利は1991年と、この写真の1992年の2回でした。

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1993年はM.ドゥーハン/D.ビーティがTT-F1時代最後のRVF750で出場。1994年のスーパーバイクレギュレーションになってからは、ダグ・ポーレン/アーロン・スライトが11番を使用。スライトは同年の8耐、そして岡田忠之と組んだ1995年に11番のRVF/RC45で見事優勝しています!

1994年(写真)と1995年、RVF/RC45で連覇したA.スライト。カワサキ時代の1993年の勝利(パートナーはスコット・ラッセル)を加えると、個人8耐3連覇という偉業でした!

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そして「33番」もエースナンバーの系譜に加わります!!!

A.スライトの連覇記録更新にホンダファンの期待がかかった1996年は、芳賀紀行/コーリン・エドワーズ組のヤマハが久々の勝利を記録します。そして1997年はA.スライト/岡田組が11番、伊藤真一/宇川徹組が「33番」をつけたRVF/RC45で参戦します! そして24℃という寒い気温の8耐で好ペースを維持した伊藤/宇川組が、鈴鹿8耐の歴史で初めての日本人ペアの優勝を記録しました!

伊藤/宇川組は1998年も33番をつけて参戦。計時予選、スペシャルステージ、そして決勝を見事制覇して、完勝で2連覇に成功しました。ちなみにこの年の11番はセテ・ジベルノー/アレックス・バロス組でした。

1997年の鈴鹿8耐を制覇した、33番をつけたホンダRVF/RC45。1997年型のワークス車は、170ps以上/14,000rpmの最高出力を発生していました。 オートバイ/モーターマガジン社

このころから、外国人ライダーのエース組が「11」、日本人エース組が「33」というカンジになり、1999年は伊藤/宇川組が引き続き33番、A.スライト/C.エドワーズが11番をつけて参戦しています。ただし、RVF/RC45最終年となったこの年に勝利したのは、4番をつけた岡田/A.バロス組でした。

V.ロッシもつけた「11番」!

ホンダの主戦がVTR1000SPWとなった2000年に11番をつけたのは、C.エドワーズと組んだバレンティーノ・ロッシでした! 一方33番は伊藤/鎌田学組でしたが、この年も勝利したのは「4番」をつけたVTR1000SPWでした(宇川/加藤大治郎組)。

その翌年の2001年、ロッシは再び11番で参戦! C.エドワーズ/鎌田組は見事リベンジを果たして優勝しました。なお同年の33番は岡田/A.バロス/伊藤組で決勝2位でした・・・。

世界ロードレースGPでは、125、250、500ccのタイトルをそれぞれフル参戦2年目で獲得してきたV.ロッシ。鈴鹿8耐も、参戦2年目で制覇を果たしています(2001年、ホンダVTR1000SPW)。

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2002年は加藤/C.エドワーズ組が11番、玉田誠/岡田組が33番のVTR1000SPWで参戦しますが、見事前年に続き11、33番が1-2フィニッシュを飾ります。

決勝を走ったライダーでは、11番をつけたホンダ車で初めて日本人鈴鹿8耐ウィナーとなった加藤大治郎(2002年)。

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近年は再び、11番はカワサキ勢が使ってますが・・・

2003年からはHRCのメインスポンサーがタバコブランドのセブンスターとなったため、ブランドイメージずばりの「7番」とHRC伝統の「11番」が使われることになります(なおこの年の33番はXフォーミュラのCB1300SFがつけていました)。セブンスターホンダ時代は7番が2勝(2004、2005年)するものの、11番は未勝利に終わっています。

2006年以降、11番をつけて優勝したチームは、2008年のDREAM Honda Racing Team(清成龍一/カルロス/チェカ)と、2011年を秋吉耕佑/伊藤/清成組で、2012年をジョナサン・レイ/秋吉/岡田組で制したF.C.C. TSRの2チームです。

さて2013〜2014年はF.C.C. TSRが「11番」を使ってましたが、2015〜2016年はチームSRCカワサキが、2017年と今年はチームグリーンが採用しています。くしくも、鈴鹿8耐初期のように「11番」は毎年カワサキ勢という風に近年はなっているワケです・・・。

・・・ということで、HRCが復活した今年、高橋/中上/レオン・キャミア組のCBR1000RRWに11番をつけることはできないけど、かつてのホンダ日本人組エースナンバーの33番ならOKだった、ということなんでしょうね。33番は鈴鹿8耐最多勝(5勝)記録保持者で、今年HRC監督をつとめる宇川が日本人ペア初制覇をしたときのナンバーでもあります。そういう意味では、復活したHRCが新たな歴史を作るにふさわしいナンバーともいえるでしょう! 

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