ホンダライダーとして長年鈴鹿8耐に参戦!
1967年に茨城県に生まれた岡田は、今風の英才教育型ライダーたちとは異なり、高校卒業後にロードレースデビューをしています。1988年に国際A級に昇格し全日本250ccクラスに参戦。1989年にはワークスマシンのNSR250のシートを得て初の全日本王者に輝きました。
その後、1991年まで全日本250ccクラスを3連覇。1993年からは念願の世界ロードレースGP250ccクラスに進出。1996年からは2000年までの5年間、最高峰の500ccクラスで活躍しています。
鈴鹿8耐に関しては、匹田禎智とペアを組んでチームHRCからRVF/RC45で出場した1994年は18位と振るいませんでした。しかし翌1995年はSBK(世界スーパーバイク選手権)で活躍するアーロン・スライトと組んで出場し、フリー走行で転倒したスライトの分まで岡田が頑張り、同じRVF/RC45に乗る伊藤真一/辻本聡組とのマッチレースに競り勝ちました。
スライトとのペアは1997年まで続きますが、1996年は27周目でスライトが転倒。雨の1997年大会は6位という結果に終わりました。1998年はコーリン・エドワーズと組んで3位表彰台を獲得。岡田は主戦場の世界ロードレースGP500ccクラスでの転倒により左手を骨折していましたが、なんとファステストラップを記録。世界GPライダーの維持と実力を多くの観衆に見せつけました。
ホンダの主戦マシンであるV型4気筒750ccのRVF/RC45のラストイヤーとなった1999年は、同じく世界ロードレースGP500ccクラスを戦うアレックス・バロスとペアを組んで参戦。同門のライバルである伊藤真一/宇川徹組が13周で転倒したことにより、RVF/RC45に乗る加藤大治郎/玉田誠組との一騎打ちの様相を呈しました。
玉田とバロスの2回目の走行時の雨が、両チームの勝敗を分けることになりました。玉田はすぐにタイヤ交換のためにピットインしましたが、バロスはスリックタイヤのまま走行を継続。その後雨が止んだため、レインタイヤに交換したチームは再度スリックへの交換を強いられることになりました。最終的には加藤の転倒が決定打になりましたが、バロスが築いたアドバンテージが追う者には強烈なプレッシャーとして押しかかったのは言うまでもありません。結果、岡田/バロス組は2位に1周以上の差をつけて優勝しました。
指導者としてもホンダに貢献
2000年の鈴鹿8耐は、フリー走行での転倒で足首靭帯を断裂し決勝は不出場。なおこの年を限りに岡田は世界ロードレースGPへの参戦をやめ、2001年からSBKヘ転向することになります。しかしシリーズ戦フル参戦ライダーとしての活動はこの年限りで一区切りつけ、翌年からチームHRC監督を務めることになりました。
しかし、岡田のレーシングライダーとしての速さが依然保たれていたことは、このころの鈴鹿8耐の成績が雄弁に証明しています。2001年は再びA.バロスと組んで、VTR1000SPWで2位表彰台を獲得。2002年は玉田と組んで、2年連続2位となりました。2003年は不運にも2周目にオイルで転倒。ピットへ回収車で戻ったことが原因で失格となっています。
その後も岡田は、ホンダのチーム監督業・テストライダー業を続けながら鈴鹿8耐参戦を継続。2006年は出口修と組んでセブンスターホンダのCBR1000RRWに乗り4位入賞。2007年はMotoGPからSBKへ転向したカルロス・チェカと組んで、チームHRCで2位表彰台を獲得しています。2008〜2010年の間、岡田は鈴鹿8耐にエントリーしませんでしたが、2011年はMuSASHi RTから高橋巧と玉田誠と組んで出場。久々に決勝を走り、3位表彰台獲得に貢献しました。
そして2012年は、岡田自身は決勝を走りませんでしたが第3ライダーとして優勝に貢献。なおメンバーのひとりである秋吉耕佑は、全日本ロードレース選手権シリーズ開幕直前のテストで大腿を負傷したため長期欠場しており、この鈴鹿8耐が復帰レースという状況でした。
レース後の優勝インタビューに秋吉はこう答えています。
3月下旬の大たい骨骨折のケガから1カ月動けず、そこからの復帰レースが、この8耐でした。ここを目標にリハビリをしてきましたが、道のりは険しいものでした。それでも勝つことができたのは、岡田さんをはじめサポートしてくれるスタッフがいたからです。
この勝利は、チーム監督よりも近い立場でチームライダーを支える仕事をこなした第3ライダーの岡田の貢献に、レースの神様がプレゼントした3度目の鈴鹿8耐優勝なのかもしれません・・・。