今年第40回記念大会を迎える”コカ·コーラ"鈴鹿8耐。この、日本で最も有名なロードレースイベントに1度でも優勝することはすべてのライダーにとって大きな名誉でありますが、過去39大会の歴史のなかには1度ならず、複数回優勝したグレートライダーが存在します。この連載は、そんな8耐マルチ-タイム・ウィナーを紹介していきます。今回はヤマハライダーとして活躍した、ケビン・マギーです!

ヤマハ8耐初勝利の立役者!

1962年にオーストラリアのビクトリア州に生まれたケビン・マギーは、世界ロードレースGPでは際立った成功をおさめることができませんでしたが、鈴鹿8耐ではヤマハ初優勝、そして連覇の立役者となった名手です。

マギーの鈴鹿8耐初参戦は1985年。この時はヤマハライダーではなく、ホンダCBX750Fに乗るプライベーターとしてロブ・フィリスと出場。予選・決勝ともに9位という成績をおさめています。翌年の1986年はスーパーバイク仕様のヤマハFZ750に、マイケル・ドーソンと組んで出場。予選4位・決勝2位という好成績で、一気に注目を集める存在となります。

1987年はヤマハファクトリーの資生堂TECH21RTのメンバーに起用。鈴鹿8耐直前にパートナーの平忠彦が負傷したため、急遽世界ロードレースGP250ccクラスを走るマーチン・ウィマーと組むことになりますが、本命のワイン・ガードナー/ドミニク・サロン組のサロンが転倒でリタイア。そしてレース終了間際に首位のヨシムラが転倒してことで、首位に浮上。そのままチェッカーを受けて、ヤマハの鈴鹿8耐初優勝を達成しました!

画像: シケインに侵入するヤマハYZF750とK.マギー。 ©︎鈴鹿サーキット/モビリティランド

シケインに侵入するヤマハYZF750とK.マギー。 ©︎鈴鹿サーキット/モビリティランド

世界GPでは不運続きで大成することはかなわず・・・

翌1988年は、チーム ラッキーストライク ロバーツの一員として、ウェイン・レイニーと組んで出場。予選ではレイニーがポールポジションを獲得し、決勝は202周で優勝。ライバルたちが転倒やマシントラブルで消えていく中、危なげなくヤマハの2連覇を達成しました。

画像: 1988年、YZF750に乗るK.マギー。チームメイトのW.レイニーは世界ロードレースGP500ccクラスで3度タイトルを獲得しましたが、マギーは通算1勝でGPライダーとしてのキャリアを終えることになりました。 ©︎鈴鹿サーキット/モビリティランド

1988年、YZF750に乗るK.マギー。チームメイトのW.レイニーは世界ロードレースGP500ccクラスで3度タイトルを獲得しましたが、マギーは通算1勝でGPライダーとしてのキャリアを終えることになりました。 ©︎鈴鹿サーキット/モビリティランド

1987年からマギーは世界ロードレースGP500ccクラスにフル参戦を開始し、2年目の1988年のスペインGPでは初優勝を記録しました。しかし1989年のアメリカGP(ラグナセカ)で、彼の運命は急転します・・・。レース終了後、トラック上でバーンアウトのパフォーマンスをマギーは行いますが、そのタイヤスモークによる視界不良が原因で、ホンダのババ・ショバートが衝突! ショバートはこの時の怪我でレースキャリアを終えることになり、マギーも足を骨折してしまいました。

1990年、マギーはラッキーストライクスズキに移籍しますが、なんと第2戦アメリカGP(ラグナセカ)の昨年の事故と同じ場所でクラッシュ。頭部を負傷し、残りのレースを欠場することになってしまいました。

ふたつの事故後、2ストロークのGP界でのマギーの記録は特筆すべきものはありません。しかし、鈴鹿8耐は相性がいいのか、1991年はダグ・チャンドラーと組んで2位、1992年はニール・マッケンジーと組んで2位と、7度の鈴鹿8耐参戦で2度の優勝、3度の2位表彰台を獲得しています。

なおマギーは引退後、地元オーストラリアのGP、スーパーバイクの解説者をつとめたり、2輪雑誌のライター/テスターをつとめたりしています。

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